今夏にニューヨークで観劇したミュージカル『ジプシー』のことを書こうと思いながらも、出張やら色々あり早くも2ヶ月が経ってしまった。それでも未だにサウンドトラックを聴いているとあの夜の感動が鮮やかに甦ってくる。歴史あるマジェスティック劇場の美しい内装と荘厳なシャンデリア、オーケストラの迫力ある生演奏、2階席後方まで響き渡るオードラ・マクドナルドの圧倒的な歌唱――余韻はまだまだ覚めやりそうにない。
1959年に初演された『ジプシー』は脚本アーサー・ローレンツ、作曲ジュリー・スタイン、作詞スティーヴン・ソンドハイム、振付ジェローム・ロビンズら天才的なクリエイターたちが集結したミュージカル・コメディの最高傑作の一つと呼ばれる作品だ。秀逸なストーリーテリング、1920年代のヴォードヴィルとバーレスクの雰囲気を再現した軽快なメロディ、「Everything’s coming up roses(すべてがバラと花開く)」など印象的な歌詞の数々は60年以上経った今でも色褪せることはない。
ソンドハイムのミュージカルの虜となって以来、彼が携わった作品を本場ブロードウェイで観ることは長年の夢だった。これまでロンドンで『フォリーズ』、日本で『ウエスト・サイド・ストーリー』『太平洋序曲』を観たことはあったが、ソンドハイムが生まれ育ったニューヨークで、彼のミューズの一人であったオードラ主演(本作の宣伝では“オードラ・ジプシー”という言葉が多用されていたため、オードラと呼ぶ方が自然だろう)の『ジプシー』を観ることは私にとって特別な体験で震えるような思いだった。
また『ジプシー』の楽曲はどれも素晴らしいが、本作のラストナンバー「Rose’s Turn」は錚々たるブロードウェイの女優たちによって歌い継がれてきたミュージカル史に残る名曲であり、私自身も大好きな一曲だ。ソンドハイムも本曲を作詞した経験は自身のキャリアにおいて頂点であったと明かしている(これを弱冠20代後半の時に書いたというのも凄い)。トニー賞6冠の類い稀な歌唱力と美しいソプラノの声を持つ女優オードラが「Rose’s Turn」をどのように歌うのか、否が応でも期待が高まった。さらに今回のプロダクションはオードラを筆頭に初めて主要な配役に黒人俳優を起用しており感慨深いものがあった。偶然にもこの前日に観たミュージカル『キャバレー』もビリー・ポーターとマリーシャ・ウォレスという黒人俳優が初のW主演を務めた記念すべきプロダクションで、本当に良いタイミングでこの二作を観ることができて幸運だったと思う。
『ジプシー』のストーリーは米国ストリップ界の女王ジプシー・ローズ・リーの自伝を基に脚色しているが、実質的な主人公は彼女の母親ローズである。ローズは熱狂的なステージママで自分が叶えられなかった女優になるという夢を二人の娘に託す。しかしなかなか思い通りには行かず、最終的には長女にストリップをやらせるという強行に出る。そして娘たちには敬遠され恋人には捨てられてしまう。ローズはその自己妄想的な性格と悲劇的な最後を迎えることからギリシア神話のオイディプス王、ミュージカル界のリア王に例えられるようなキャラクターだ。彼女を簡潔に表現するなら豪快、野心的、愛情過多、毒親、コントロールフリーク、モンスターといった言葉が思い浮かぶ。
そんなローズをブロードウェイ初演版で演じたのは著名なコメディアンのエセル・マーマンだった。一度聴いたら忘れられない低音域のパワフルな歌唱、快活で大胆な性格で知られていた彼女はまさにハマり役だったと言えよう。ソンドハイムは『ジプシー』の作詞にあたりエセル・マーマンによって演じられるローズという視点で創作を進めていった。作詞家・作曲家でありながら劇作家的な一面も持っていたソンドハイムはその巧みな洞察力によって曲の中でキャラクターの性格を複雑に表現してきたが、特定の俳優の才能と限界に合わせて曲を書くことにも非常に長けており『ジプシー』のローズはその記念すべき第一号だったのだ。
初演のエセル・マーマンの印象があまりに強かったためだろうか、これまで名女優たちによって演じられて来たローズは畏怖の念を抱かせるような刺々しさ、毒々しさが際立つところがあったと思う。もちろん私が『ジプシー』を生で観劇したのは初めてで昔のプロダクションは音源で確認したに過ぎないため公正な評価とは言えないのだが、オードラはローズの人を遠ざけるような不快さは踏襲しながらも彼女の不安や恐れ、脆さなど人間的な側面をより曝け出していて今までと違う新鮮さを感じた。
自身も二人の娘を持つオードラのインタビュー映像を見ると、彼女はローズのことを「周囲の人々を巻き込むトルネードのような存在」としながらも「娘たちを愛する献身的で過保護な母親」であると解釈している。またオードラはローズを黒人女性として演じることによって「新鮮に感じられた」と語っている。物語の舞台となった1920年代に黒人女性がどのような苦境に立っていたかに思いを巡らせ、自分を育て上げた母親、祖母、叔母へのラブレターとしてローズを演じたそうだ。今回のプロダクションはオリジナルの脚本から一切セリフを変えていないというが、オードラのローズには母親としての共感、ブラック・ウーマンとしてのアイデンティティと誇りが込められ、さらなるレイヤーが増したと言える。
ラストナンバー「Rose’s Turn」の前にローズは長女ルイーズと口論になる。ストリップ女王ジプシー・ローズ・リーとして成功し自立した娘はもはや母親の過剰な干渉には耐えられない。やがてルイーズは彼女の華やかな控え室と共に静かに後ろへと消えていき、ローズは暗く侘しいステージに一人取り残される。この優れた演出により彼女の孤独が強調され、客席には緊張が一気に張りつめていく。そしてオードラが全身を絞り切るように歌い上げた「Rose’s Turn」にはローズの愛情、憎しみ、怒り、悲しみ、虚無感など様々な感情が一気に押し寄せてきて痛切だった。
私はよりローズに対して共感を持ったし、これまで彼女のことを本当の意味で理解していなかったのかもしれないと気付いた。不屈の毒親、悲劇的なモンスターという風に単純化してしまっていたところがあったが、実はローズはもっと複雑なキャラクターであり自分と共通している点も多くあったのだ。他者と社会から評価されたいという承認欲求、愛への渇望、夢に対する執着心、孤独の恐怖。そんな誰もが持っている普遍的な感情をオードラは巧みに表現していた。あの夜、確かにローズをより近くに感じられた。古い友人のように。
作家メリル・セクレストはソンドハイムが「Rose’s Turn」の創作によって「危機的状況に陥った人間が、自覚を拒みながらも同時にその自覚が表面化することを防げない瞬間――啓示的でありつつ個人を打ちのめす瞬間――を描く手法を見出した」と分析している。まさにオードラはこの瞬間を克明に捉えていたように思う。もしソンドハイムが今も生きていてオードラのローズを観ていたらどのように評価したのだろうか。きっと拍手喝采していたのではないかと私は思う。
ブロードウェイでオードラ主演のソンドハイムのミュージカルを見るという夢のような一夜だった。今度は彼が作詞・作曲の両方に携わった作品を再びこの地で見たい。また新たな夢ができた。
コメント
コメントを投稿